犬を触りたい

犬を触りたいです

価値は自信となり得る

そもそも文章を書くことが苦手ではないのですが、良い文章や良い言葉を紡げるかはまた別の話なんですよね。どれだけ書き手が文章を書く、ということが苦手ではないと言っても、良い文章は知識量や技量がモノを言うので、苦手か得意かということと、なにかあっと言わせる文章が書けるかどうかは別なんです。極論、自分の生きた証が自分の書く文章で、自分が身につけてきた経験が自分の書く文章ということなので、生きた証を刻む気がないやつは良い文章なんて書けるわけがないし、身につけてきた経験を活かせないやつは良い文章なんて書けないはずなんです。

私は自分が生きた痕跡は残したくないという思いで生きてきましたが、仮にあと数年しか生きられないという現実がやってきたとしたら、きっと生きた証をこの世に残したいと思うんだろうな、とふと考えました。というのも、私は人に惜しまれながら死ぬというのは幸せなことなのでは?と考えています。惜しむ人はその人に対して何らかの価値を見出していたわけで、それってその人には生きる価値があったということで、それは幸せに値することな気がしています。生きる価値とは、とか生きているうちに感じられないのに幸せなのか、という疑問点もありますが、私の中では死んだあとの理想形がそれなので、何とも言いようがないのですが、まあつまりなにが言いたいかというと、自分の生きた証を残して、自分が誰かの価値になれば良いなという気持ちが私にもあった、ということです。でもよく考えたら、別に余命宣告されていなくても生きた証を残していいんじゃないか、という気もしてきた。結局、まったくまとまりのない話で、まとまらない文章しかかけないということです。

 

私の生きた証は、文章でしか残せないと思っています。写真とかそういうのは、得意かと言われれば得意ではないし、むしろ苦手だから、仕方がないです。絵とかもセンスないし。証を残す場所はツイッターとかブログとか、なにか特定の場所ではなく、やりたいところでやるし、内容だって生産性のないものばかりですが。というか、思えばツイッターも高校入学するあたりからやってるから、もう10年近いんだよなあ。変なの。