犬を触りたい

犬を触りたいです

口内炎、つらいから。ポエムみたいな話

私が思う幸せとはなにか

エゴとはなにか

自分が幸せに生きていくことが幸せなのはなぜか

 

私は、私が好きな人が、幸せで楽しく生きてくれることが幸せだと感じる。

自分で言っていても、言葉の並びはすごくキレイゴトのように見える。そもそも、幸せってなに?ってところから始まるし、楽しく生きてほしい願いって、楽しくなければいけないみたいな、一種の押し付けのようで、無責任では?と思う人もいるだろうな〜と推測できる。でも、実際そうなんだと思う。自分の人生で、自分が何かをすることで幸せになろうとするのではなく、”自分の好きな人”が幸せで楽しく生きるのが幸せ、というのは他力本願のように見えてしまうかもしれない。かもしれないというか、これは本当に他力本願なのかもしれないけれど、まあ、なんと言えば良いのかわかりませんけれど、でもこれは、私が自分の人生のなかで見つけた私の幸せの1つなんですよね。

人生の目標とか、ポリシーとか、目指す場所とかは分からないけれど、私が好きな人が幸せであるように、私が幸せになるために、好きな人を幸せにできるのが、良いことなのかもしれないと考えています。

幸せで楽しく生きてほしいとはどういうことなのか?

願いとしては漠然としすぎていて中身がないように見えますが、まあ意外とそんなこともないです。

私が思う幸せは、自分がやっていて、その環境・空間にいて、自分の心が満たされる状態を指します。内容は人それぞれ色々あると思うけど、まあそれにこだわりはないのでなんでも良くて、「自分がしたいことをしていると幸せでいられる」のが大事だと思います。

幸せにも、

1)人から与えてもらう幸せ

2)自分で作り出す幸せ

3)人と作り上げていく幸せ

の大きく分けて3種類あると思っています。1)は幸せになってほしいと他者から願われて与えてもらったもの。親族が1番分かりやすい例です。2)は、自分がなにかしているときに感じるもの。食べてるときとか寝ているときとか休んでいるときとか、それぞれ内容もなにもかも違うものです。3)は、人間関係においての話です。恋人、友人と一緒にいて、楽しい思いを抱いているときに感じるものだと思います。あと、人からなにかをしてもらったときも当てはまります。相手は私を想い、私も相手からもらう幸せで幸せになるので、それは関係の中で、両者間で幸せを作り上げていると考えます。

幸せであってほしいけれど、与えることは難しい

好きな人に幸せであってほしいけれど、幸せになってもらいたいからといって、自分を犠牲にしてまで好きな人に幸せを与えることはできないと思います。私にできることは端から端までしてあげたいけれど、それが自分の幸せをないものにしてまでしていいかと言ったらそれは違うと思います。

自分を犠牲にして幸せを与えていたら、絶対ではないかもしれないけれど、与えた人を歪んだ目線で見てしまうと思います。「私はあれだけしてあげたのに」といった感情を抱くときって、そういうことだと思います。自分ができることの端から端までしてあげたあげく、自分ができないことまで自分を犠牲にして、幸せを与えてしまった人だと思っています。

悪いと言うわけでは決してありません。その幸せを与えた瞬間は相手も私も幸せだったなら、悪いことでは決してありません。でも、向かう先が憎悪なら、その幸せは、結果として見せかけの幸せになってしまいます。先のことなんて誰も分からないので、先を案ずるのではなく、いまできることなのか、それは本当に幸せなことなのかをしっかりといま考えて生きるほうがきっと楽だと思います。

「好きな人に幸せになってほしいから、あなたにはこれが幸せ」ということを強要させることはできません。相手が思う幸せは、私が100%合っているものを考えられません。反対に、相手も私にとっての100%の幸せが分かるわけではありません。それは、個々で人間が存在する限り仕方のないことな気がします。

ただ、相手の幸せを願うことはできます。相手の幸せを尊重して、相手と幸せを作っていくことはできます。私も相手も犠牲にならず、不幸にならず、少しずつ理解し合いながらお互いの幸せへ向かっていくことはできると思います。

自分の幸せのために、誰かと一緒に、私とあなたが幸せに感じる幸せを作り上げるのが私の人生においては正解だと思いました。

 

 

 

 

あえて編集もせず出すけど、今年の8月とかに書いてます。なんとなく削除するのももったいないので海に捨てました〜